1999
「1999」第2章
第7話「マッチ売りの少女(1)」




「皆さん!!!!聞いて下さぁーーーーーーい!!!」

 カブトムシみたいな顔をした男だ。どこがどうカブトムシなのかは分からないが、男をみた瞬間「カブトムシ」という言葉が浮かんできた。イメージとは不思議なものだ。男の顔にはカブトムシを連想させる何かが確かにある。だが、それを具体的な言葉で指摘することができない。それにもかかわらず男は依然としてカブトムシなのだ。
 僕は男を「カブトムシ男」と呼ぶことにした。たぶん、男の顔を見た誰もが、このネーミングに賛同してくれることだろう。僕にはその自信がある。

 カブトムシ男は小柄だ。僕よりも頭ひとつ分背が低い。趣味の悪いグリーンのチェックが入ったシャツの上に、それに輪をかけて趣味の悪いウールのチョッキを着ている。シャツの裾はきっちりとジーパンの中に仕舞いこまれ、ジーパンの裾はシューズに届くか届かないかのところでぴっちりと折り曲げられている。実に奇妙ないでたちである。

「ヨサルディン・ポ・ゲペドンが現れたそうです!!場所は中野ブロードウェイの二階、携帯電話で何者かと会話しながら歩いていたところを、信者の方が発見し、果敢にも尾行に及んだとのこと。
 残念ながら、ヨサルディンの姿は駅前付近で見失ったとのことです。」

 部屋の中はざわめき立った。

「ヨサルディン発見か!!」「駅前で見失ったって!?ちきしょう、何故捕獲しなかったんだ!!」
「だが、まだ近くにいるかもしれませんよ!!」「そうだ!!」「皆、行こう!!」「おおーーーーーーーーっ!!!」

 信者達はこの時を待っていましたとばかりに盛り上がり、異様なテンションで部屋を飛び出していった。まるで集団で飛び込み自殺をするレミングみたいだ。でも、レミングの集団自殺説って、ホントは嘘なんだよね。
 後には僕とマッチ売りの少女だけが取り残された。
 僕たちはそのまま15分ほど何も語らず、あっけに取られて固まっていた。

「…みんな、行っちゃいましたね。」
 僕はザ・ワールドのスタンドに時間を止められてしまったかのように硬直しているマッチ売りの少女に声を掛けた。その声を聞いたマッチ売りの少女は、ものすごい勢いでこちらの方に向き直り、

「私達も行きましょう!!」
 と言った。
 強い決意と情熱に満ちた目だ。有無を言わせぬ迫力がある。薄幸を絵に描いたようなマッチ売りの少女の中に、こんなパワーが潜んでいたなんて、ちょっと驚きだった。

 その勢いに押し切られるようにして、僕たちは部屋を後にした。









 マンションの外に出た僕とマッチ売りの少女は、他の信者達を探した。が、既に電車に乗り込むかタクシーを拾うかして、中野にでも向かったのだろう。周囲には信者の姿はおろか、通行人の姿さえなかった。まるでこの周辺の街だけが地球の自転に取り残されてしまったかのように、辺りには虚無が漂っていた。
 マッチ売りの少女は右を向いたり、左を向いたり、目玉をあちこちキョロキョロさせたりして、せわしない様子だ。勢いで外に飛び出してみたものの、何をどうしたら良いものか、考えあぐねているようである。

「ここはひとつ、コーヒーの一杯でも飲みませんか。今から他の信者さんたちに追いつくのは無理そうですし。僕たちはじっくりと作戦を練りましょう。ヨサルディンとやらを見つけるために。」

 僕は助け舟を出した。

「はいっっっっ!!」
 マッチ売りの少女は、藁にすがりつくように飛びついてきた。









 数分後、僕たちは駅前の喫茶店にいた。
 悪くない店だ。シックな内装といい、壁に掛けられた林檎をかじる女の絵といい、無言でコーヒーカップを磨き続けるマスターといい、全てが悪くない。マスターが必要以上に干渉してこないのもいいし、何より客が僕たち以外誰も居ないのが最高にいい。僕はこういう喫茶店を求め続けているのだ。だが、そのような店に出会えることは滅多にない。「良質」かつ「客が居ない」という、決して両立し得ない水と油の性質を要求しているからだ。良質な店はいずれ繁盛するし、客が居ない店はじきに潰れてしまう。
 今日の僕は、そんな店に出会えたというわけで。いつになくツイてる。

 僕はケーキセットをふたつ注文した。店のメニューにはブレンドコーヒーとケーキセットの2択しかなく、選択の余地はあまりにも限られていた。
 しばらくすると、マスターがコーヒーとチーズケーキを二つずつ運んできた。

 コーヒーをひと口啜ってみた。
 恐ろしいくらい良くできたコーヒーだ。酸味と苦味にいやらしさがない。細心の注意を払って淹れられている証拠である。
 このような種類のコーヒーだけが、人の心を落ちつかせることができるのだ。コーヒーという飲み物はとてつもなくデリケートに出来ていて、淹れた人間の精神性が如実に表れる。サイフォンによって淹れられたコーヒーは、缶コーヒーやインスタントとは別次元のものだ。あれはあれで旨いが、そこには精神性の欠片もない。
 そして世の中には、コーヒーを淹れるためだけに産まれてきたような天才が、確かに存在するのである。
 僕は今、そんな天才の淹れたコーヒーを飲んでいるのだ。


 その僥倖のようなコーヒーを飲んだマッチ売りの少女は、少し落ち着きを取り戻した様子で、チーズケーキをフォークの先で突つきながら、考え事を始めた。

「困りましたね。皆さん、どこかへ行ってしまわれたみたいですし。」
 マッチ売りの少女は言い、ケーキを口の中に運んだ。

「定例会というのは、いつもこんな感じなんですか?
 つまり、あのマンションに集まって、例のヨサルディンとかいうお坊さんの行方を追っているんですかね?」

「そうですね。まあ…そういうことになります。」

「ふうむ。」

 何というか、ヒジョーに非生産的な集団である。いい年した大人が一体何をやっているのか。流石にこんなヨタ話を、本気で信じているわけでもなかろう。
 先ほど僕はマンションの部屋で、マッチ売りの少女に「そんな話を本気で信じているのか」とうっかり聞いてしまった。カブトムシ男の闖入によって、その問いに答えてもらえる機会は永久に失われてしまったが、彼女の困惑した表情が、その答えを如実に物語っていた。




「信じてるわけないでしょ」と。




(続く)




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